B’zは、1988年9月21日にシングル「だからその手を離して」とオリジナルアルバム「B’z」の同時リリースでデビューしたギタリスト松本孝弘とヴォーカル稲葉浩志からなるロックユニットです。
彼らはデビュー以来、約33年間音楽活動を止めることなく、53枚のシングル、21枚のオリジナルアルバム、9枚のベストアルバム、5枚のミニアルバムなどをリリースしており、それに伴い「平成30年ランキングアーティスト別セールス」では、累計売上8262.4万枚(シングル3596.9万枚,アルバム4665.5万枚)を記録して日本で1番CDを売り上げたアーティストに選ばれました。
もちろん偉大な記録はセールスの記録だけではなく、「LIVE-GYM」と冠するB’zのLIVEは2019年7月6日に行われた「B’z LIVE-GYM 2019-Whole Lotta New Love」大阪城ホールの公演で、通算1,000回目のLIVEを達成しました。
このようにロックユニットB’zはデビューから30年以上が経った現在も名実ともに音楽界のトップを走り続ける日本が誇るアーティストの1組です。
そんなトップアーティストB’zの生みの親である松本孝弘さんは、プロの音楽の世界に入るまでは東京にある池部楽器店さんの池袋店でアルバイトをされていました。
「18歳ぐらいのとき考えましたよ。”プロになんかなれるわけない”と思ってたし」/松本孝弘
B’z ウルトラクロニクル37ページ
18歳の松本孝弘さんはアルバイトをしながら将来について考えたこともあったそうですが、夢を追いかけるのではなく、現実を見ていたそうです。
しかし、完全にプロの世界を諦めていたわけでもなかったみたいで、スタジオ・ミュージシャンに憧れられていました。
そして結果的に事務所に送った1本のデモテープがキッカケとなり、
松本孝弘さんはセッション・ギタリストとしてプロの世界に進むことになります。
では一体、松本孝弘さんがプロになるキッカケとなったデモテープはどのような経緯で創られたものだったんでしょうか。
今回は松本孝弘さんがプロになるキッカケとなったエピソードについて詳しくご紹介させて頂きます。
B’z松本孝弘「うまく引っかかったんですよ、僕だけ」事務所に送った1本のデモテープがキッカケでプロになりました
売れたい人が集まってやってたバンド
「まあスタジオ・ミュージシャンが、すごく華があった時代なんですよ。で、”僕もそうなりたいなあ“と思って。」/松本孝弘
B’z ウルトラクロニクル5ページ
当時はスタジオ・ミュージシャンが華があった時代だったそうで、松本孝弘さんもスタジオ・ミュージシャンに憧れを抱いていました。
そもそも松本孝弘さんは自身がギターだったこともあり、シンガーには目が行ったことがなく、シンガーがいるバンドよりもスタジオ・ミュージシャンの方がカッコいいと思っていたそうです。
「バンドっていうのはね、非常にバンドバンドしてなくて。みんなスタジオ・ミュージシャン的な感じで集まってデモ・テープを創って、それをどっかに出して引っかかれば、”自分だけでもやっていきたい”っていうヤツばっかりだったんだよね、そのバンドは。」/松本孝弘
B’z ウルトラクロニクル6ページ
だから、松本孝弘さんはバンドとして売れたいということではなかったので、各メンバーが”自分だけでもやっていきたい“と考えているバンドバンドしていないバンドのメンバーになって、デモ・テープだけ創ってそれを事務所に送っていました。
同僚が送ったデモテープ
「そのバンドは。今聴いてもデモ・テープは非常にちゃんとしたものを創ったんだけども。で、うまく引っかかったんですよ、僕だけ。今の会社に。で、バンドはすごいマニアックなバンドだったので、”バンドじゃなくて松本君だけ仕事として、セッション・ギタリストとしてやってみない?”っていう話で入ったの。だからそれはもう願ったりかなったりで、自分はそうしたかったから。」/松本孝弘
B’z ウルトラクロニクル6ページ
その送っていたデモ・テープの出来はかなりのものだったみたいで、当時から10年以上経っているにも関わらず松本孝弘さんも「今聴いてもデモ・テープは非常にちゃんとしたものを創った」と評価しておられます。
そんな高いクオリティのデモ・テープを同僚が音楽事務所「ビーイング」に送付したことがキッカケとなり、
松本孝弘さんはセッション・ギタリストとしてプロの世界に進むこととなりました。
ちなみに松本孝弘さんと一緒にデモテープを創ったバンドはマニアックな音楽だったことから、事務所の方たちの目にはとまらなかったみたいで、松本孝弘さんだけが事務所に所属することになったみたいです。
当時、松本孝弘さんはセッション・ミュージシャンに憧れており、デモ・テープを一緒に創ったバンドメンバーと同じく”自分だけでもやっていきたい” と思っていたので、バンドとして事務所に迎えられるよりもセッション・ギタリストとして歓迎される形になって、
願ったりかなったりだったとおっしゃっています。
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